ブログ
2022.06.23
印璽
「御爾」は、御印・内印・玉爾ともいった。天皇の印のことをいい「天皇御爾」の四字を刻した印である。律令制では少納言が保管し、諸司・諸国に「符」を下す場合に用いた。これに代わって外印(大政官印)が押された。昔のものは方二寸七分(約八、一センチ)の銅印であった。現行のものは、明治七年(一八七四)の新制の金印で方三寸(約九センチ)となり、大日本国爾(国印)とともに内大臣がこれを保管した。
詔書・親任官・認証官の官記、親授・勅授の位記に用いた。今は侍従職が保管、天皇の国事行為に伴い発せられる証書・法律・政令・条約書・内閣総理大臣の任命書などに用いられている。明治新政府は新しい「天皇御爾」を制定するに当たり、明治三年官内省の役人伊達宗城を清国(中国)に派遣して清国の御爾について調査をさせ、帰国後、東寺わが国の篆刻家の第一人者であった長崎県の小曽根乾堂に「御爾」の製作を下命することに決定した。
ところが、小曽根乾堂は「御爾」の奉刻には無位無官のものでは誠に恐れ多いとして、ねがわくば従五位の位階をあらかじめ下し賜るようにという、誠に虫のよい請願をひそかにその筋へ働きかけた。しかし、そのような腹黒い篆刻家の請願は「聞き届けがたし」と取り下げられ、宮内省は、京都の奏蔵六・阿部井檪堂の両氏に、御爾の奉刻を新たに下命した。奏蔵六は、当時、京都の勧業場御用掛で鋳造家、阿部井檪堂は京都小路に住む篆刻家で印刻店を経営していた。
御爾奉刻の栄に浴した二人は、潔済もく沐浴してひつせい畢生の心力をこめて御爾製作に精進した。
御爾の全材料は純金、重量三貫目(約十二キロ)を使い、檪堂が原印「鋳型」を、蔵六がそれを鋳して完成した。このときに天皇御爾と大日本国爾の二種を製作した。御爾の側面には、「神武天皇紀元二千五百三十四年明治七年甲戌三月奉勅新製黄金爾一雙即西京人安部人奉刀。宮内卿正二位徳大寺実測謹識」と落款が刻してある。この御爾は、いま宮内庁の侍従が保管し、一般人には見ることができない。
せっかく奉刻を下命された小曽根乾堂は、のちに一世一代の失敗をしたと、欲張ったことを深く反省したという。御爾印は今では四方の隅の縁はだいぶ丸くすりへってしまっているといわれている。(昭和五十三年七月、内藤香石先生談)